先日、『ジョーカー』二回目の鑑賞に行ってまいりました。
折角なので人生初のドルビーシネマでの鑑賞に踏み切りましたが、画質音響ともに大変素晴らしく、大迫力の中じっくりと映画に浸ることができました。(拳銃の音などかなり凄い衝撃で結構心臓にキましたね…笑)
また、シアター内へ続く道中の内装も、作中のゴッサムシティをイメージした作りになっていて、雰囲気十分といった感じでしたね。
というわけで、そんな雰囲気たっぷりな中での『ジョーカー』鑑賞、前回の記事には書かなかった主人公の周辺人物への所感や、二回目の鑑賞で改めて気づいたこと、また主人公に対して改めて思ったことなどもチラホラと出てきましたので、再び感想(というか雑感)記事を書かせていただきたいと思います。
毎度のことですが、内容的にネタバレはどうしても避けられないことですので、未見の方はくれぐれもご注意下さい。
(むしろ一回目の記事以上にネタバレ多めとなっているかもしれません…汗)
(※)追記の内容に関しては、コメディアン・マレーについての項目で書かせていただきました。
(※)前回の鑑賞時の感想記事はこちらになります↓
全体を通しての感想
まず、初見時はあれだけ理解しづらいと思っていた主人公に対して、感情移入とまではいかずとも強い感情を抱いたことに自分でも驚きました。
冒頭で主人公がピエロのメイクをしながら、涙をこらえつつ無理やり笑顔を作るシーンからして、なんとも言えない息苦しさを感じてしまいましたね。
初見時は「次はどうなるんだろう」と身構えながらストーリーを追っていったものですが、二回目の鑑賞となった今回はストーリー展開を把握している分、より主人公の感情の動きに着目する余裕ができたのかもしれません。
また、主人公の持ち歩いているネタ帳の書き込みを見てちょっと驚かされたり(後述)、ここは現実なのか主人公の妄想なのかどちらだろう…と注視しながらストーリーを追っていく中で改めて気づかされたことがあったりと、二回目ならではの発見があってこれはこれで新鮮な感覚でしたね。
アーサーについて
主人公のアーサーに関して、さんざん理解しづらい、人物像が見えてこないとこれまで感想に書いてきましたが、今回の鑑賞では、彼を敢えて「アーサー」や「ジョーカー」というキャラクターではなく、”精神疾患を抱え、周囲の無理解に苦しみながら不器用に生きている一人の人間”という風に捉えるように意識してみました。
すると、初見時ではただただ理解しがたいと思っていたアーサーという人物の一片がなんとなく見えてきたような気がして、また自分自身でもその感情の強さに驚かされました。
彼は、幼少時の虐待による後遺症で脳に損傷を負い、笑いの発作が出てしまう…という障害を抱えていますが、そちらはあくまで後天的なものであり、ネタ帳の書き込みの誤字脱字(字幕でもはっきりと強調されていましたね)であったり、こちらもまた後述しますが人との距離感を測ることが困難であることといい、恐らく先天性の知的ないし精神障害も抱えているのだと思われます。
とはいえ、(薬の力に頼りながらとはいえ)母親の介護をし、毎日きちんと仕事に行くことができるぐらいの生活能力は持ち合わせているので、周囲からは気づかれない軽度のものなのでしょう。
また、彼の場合、”笑いの発作”の方が明らかに「目立つ」ので、そちらの方でもとの障害が覆い隠されてしまっている…というのもあるのかもしれません。
いずれにしても、軽度であること、そしてもう一つの重度の後天的な障害の方がより目立つために見逃されてきてしまったのだろうな、と思いました。(もちろん、作中の時代背景的にまだまだそういった障害、精神疾患への理解が広まっていなかったというのもあるでしょうが。)
「軽度」の障害だからこそ、周囲の理解が得づらく、余計に生きづらさを感じやすい。
ネタ帳の書き込みに、精神疾患を持つ者にとって、心の病などないと周囲から言われることが最も辛いとありましたが、ジョークのネタではないアーサーの本心が非常に強く出ているシーンだなと思われました。
ネタ帳の書き込みについて
ちらっと見ただけでも誤字脱字が多く見られましたね。
母親の書いた手紙や新聞の記事などは難なく読んでいたので、文字を読むこと自体には大きな問題はなさそうですが。
いわゆる学習障害(LD)の中には、文字の読み書きが困難という症状があるのですが、この場合は読み書きというよりも言葉の意味の取り違いなど知的レベルの問題のような気がしますね。
日常生活はなんとかこなせていても、ごく一般的な社会人として社会生活を送ることに関してはそこそこの負担がありそうだな…とつい思ってしまいました。
また、二回目に鑑賞して初めて気づいたことなのですが、その手の雑誌から切り抜いたと見られる女性のその手の写真(見えてはまずいところは上から黒ペンで塗りつぶしていました…)がぺたぺたと張り付けてあったんですよね。
この映画、その手の描写は一切ない(一部ジョークのネタとして少々出てくる程度)ものなのでほんの一瞬、本当にさりげなく示されるその写真のシーンが妙に印象的でした。
後の場面で、下ネタのジョークはウケやすい…などとメモを取るシーンがあるので、ジョークのネタとして色々仕入れていたんでしょうか。
それともまた別の意図があってのことなのでしょうか。
見られてはまずい部分を黒ペンで塗りつぶしているのは、そういったものへの嫌悪なのか、それとも憧憬なのか、一体どういった気持からなのでしょうか。
アーサーの利き手について
このことに関しては、Twitter上の色々な考察で指摘されていたので、注意しながら見ていたんですが、確かに場面によって右利きだったり左利きだったりしますね。
特に、上記の「精神疾患を持つ者にとって…」の一文を書く際、左手にペンを持ち替えて、さらに強い筆圧で書き込んでいたことが印象的でした。
ジョーカーとして覚醒(?)してからもしばらくは右利きだったのですが、マレーの番組で出番を待っている瞬間からはタバコを吸う手も、また銃を持つ手も左手になっていて完全に左利きになっていましたね。
序盤のアーサーはほぼ右利きで過ごしていたので、右利き=社会に適応しようとしている”アーサー”としての人格、左利き=アーサーの内に秘められている『ジョーカー』の片鱗、を表しているのでしょうか。
冷蔵庫のシーンについて
このシーンに関してはなかなか興味深い考察がたくさんありますが、私はこのシーンの前後、つまりアーサーが母親の手紙を読み、ウェイン邸に向かうところから母と自身の過去を知り、母を殺害するところまでは、実は時系列が入り乱れているのではないか?とも感じられました。
父親と信じた相手は実の父ではなかった。
自分は母の実子ではなく、それどころか自分の脳障害の原因を作ったのはこの母だった。
全ての事実(全てが真実、なのかどうかは分かりませんが…)を知ってからのこの冷蔵庫のシーンであればなんとなくアーサーの取った行動も理解できるように思えます。
冷蔵庫というのはたまたまそこにあったから、なのでしょうが(あるいは、頭を冷やしたいとでも思ったのか)とにかく閉鎖的な空間に身を置くことによって平常心を取り戻したかったのでしょう。
人間の心理として、「四方が囲まれている静かな空間」というものはリラックスできるという効果があるそうなので。
”人を傷つける”笑いと”傷つけない”笑い
結論から言うと、アーサーは人(他者でも自分自身でも)をネタにして笑いを取る、というスタンスのコメディアンとしては向いていなかった、と思います。
彼自身が、人から傷つけられること、見下されることを最も嫌っている以上、そうした「人を傷つける」ことの上に成り立つ笑いという概念自体が、アーサーにとって理解しがたいことなのではないでしょうか。(優しい、というのとはまた違うと思いますが。本編でアーサーが他人に優しくする描写は特になかったように思われるので…汗)
ですが、序盤でやっていたように、ピエロの仮装をして子供たちを笑顔にする、ということに関しては、「人を傷つけない」笑いですよね。
これは私の勝手な主観というか個人的な願望が多いに含まれていますが、自分にとって向いていないことを目指すのではなく、子供たちを笑顔にする、自分自身に本当に適した生業を目指せば良かったのではないかな…と思います。
もちろん、だからといって貧困問題や精神疾患の問題までもが全て解決できるというわけではありませんが。(特に前者に関しては個人の問題ではなく国そのものの政策の問題ですしね…汗)
とはいえ、アーサー自身、大人(序盤で襲撃された不良少年たちは「大人」に近いカテゴリーに入るのでしょうか)に対しては常に立場が弱い状況に置かれてしまうけれども、一方で小さな子供が相手だとごく普通に接することができる、といった特徴が見られますので、その道を進むという人生もあったのではないかなぁ…というのが個人的な思いですね。
自身の望むことと、実際に向いていることとが必ずしも合致しているとは限らない。(むしろ合致していないことの方が多いかも)
月並みな言葉ではありますが、人生ってなかなか難しいな、うまくいかないもんなんだな、と思わざるをえませんね…。
その他、登場人物に関しての所感
アーサーの母親・ペニーについて
アーサーの母ペニーへの印象ですが、初見では息子を気遣う心優しい母親、といった印象でした。
いわゆる高齢の親の介護問題によくある、認知症からくる暴言や暴力で子供を煩わせるといったようなこともなく、非常に穏やかな気性の女性のように思われます。食事を持ってきた息子に対して、貴方の方こそちゃんと食べて、と促したりといかにも優しい母親といった感じです。
しかし、改めて物語序盤からの彼女の息子に対する言動を見ていると、どうも違和感を覚えてしまいました。
息子を「Happy」と呼び、人を笑顔にする人になりなさいと言い続けてきたという彼女。しかし、一方で、息子自身の口からコメディアンになりたい、と聞かされたときに彼女が発した言葉は「あなたにできるの?人を笑わせられるの?」という、アーサーからしてみれば突き放すような言葉だったんですよね…。
ペニーはペニーなりに、不器用で人と関わることが苦手な息子を心配してつい言ってしまった一言なのかもしれませんが、だったら「人を笑顔にする人に」…という言葉は一体何だったのだろうと。
この昔から言ってきたことと普段の行いが一致しない感じ、そしていくら待てど返事が来ないであろうトーマス・ウェインからの手紙を心待ちにしている=見ようによっては現実逃避とも思える様子……。
アーサーが彼女を殺害した大きな理由は、自分の生い立ちの真実を知ったためではありましたが、実はそれ以前からも、彼は寝たきりで介護が必要な自分の母親に対して殺意とまではいかずとも煮え切らない思いを抱いていたのではないかな、と思えてしまいました。
客観的に見てみると、血のつながり云々は置いておいてよく似た母子だと思うんですけどね。
二人とも物事に対して受動的で、いつかは○○○(ペニーの場合はトーマス、アーサーの場合はマレー)に振り向いてもらえるのではないかという自分にとって都合の良い願望=妄想を抱いている…という点からして。
作中の最も大きな謎である、アーサーはトーマス・ウェインと母の間に生まれた子供なのか、それともトーマスの言うように本当に養子なのか?ということに関しては、全てを知っているであろうペニーがアーサーによって殺害されてしまうので、残念ながら永遠の謎となってしまいましたね。
このどちらの方が正解なのかによって、ペニーの人物像に対する解釈が大きく変わるかと思われるんですが。(前者でしたらペニーはトーマスに捨てられた被害者ということになりますし、後者でしたら自分の勝手な妄想に息子を巻き込んだ酷い母親だということになります)
それならば、あの写真の裏に書いてあったトーマスからのメッセージの説明もつきますし。
いずれにしても、あのときのアーサーはもうどちらでも構わない、これ以上自分の出生に関して振り回され続けるのはもうたくさんだ…という精神状態であったため、この映画が最初から最後までアーサーの視点で構成されている以上は、この父親問題に関してはアーサーではなくあくまで観客にとっての謎、ということになるでしょうね。
妄想上の恋人・ソフィーについて
アーサーと同じアパートに住み、たまたまエレベーターに同乗して一言二言会話を交わしたというだけでアーサーから想いを寄せられることになってしまったという彼女・ソフィー。
実際には彼女はアーサーと会話をしたのはそれきりで、全くの赤の他人だったというわけですが(現実のシーンで、ソフィーがアーサーに対して「確か、アーサーよね?」「お母さんを呼んできましょうか?」と尋ねるのですが、同じアパートの住人としてその程度の情報は把握していたということでしょうか)、妄想の中での彼女は本当にアーサーにとって「理想の彼女」だったんだなと思いますね。
ステージで自分のネタがいまいち受けなかったときでも、彼女だけは一人にこにこと笑っていてくれて。会社員三人を射殺した犯人のピエロのことも、「この町のヒーローよ」と褒めたたえてくれて。母親が倒れたときは病院にまで一緒に付き添ってくれて。
はっきり言ってしまうと実に都合の良い存在だな、とも言えてしまいますね。汗本当は彼女には娘(ジジ)がいるはずなのに、妄想の中でアーサーがソフィーと共にいるシーンでは娘の姿が一切ないというのも、本当に都合良すぎですよ。苦笑
この前のシーンで、アーサーがバスでたまたま前の席に座っていた男の子に構ってあげたところを男の子の母親にたしなめられる…というシチュエーションがあったので、バスの母子とソフィーとジジ母子との対比という演出なのかなと初見時は思ったのですが、今から思えばアーサーのその後の妄想の中にジジは一切出てこない、という伏線めいた描写だったのかもしれませんね。
それにしても、彼女もまたアーサーに殺害されたのでは、という考察もあるんですね。
ソフィーはあくまでアーサーの妄想上の恋人だった、ということが判明しただけであって特にアーサーのことを邪険に扱っているわけではありませんし(傍にいる娘を守るため、という理由からでしょうが、アーサーに対して部屋から出ていけと罵声を浴びせることもなくあくまで冷静に対処していたので。)、彼女に関しては生存している、と個人的には思っていたのですが。
ただ、シーンが切り替わってサイレンの音が鳴り響いているという演出にはゾッとさせられましたね。これもまた、観た人によって解釈が分かれる描写の一つだなと思います。
小人症の同僚・ゲイリーについて
ストーリー終盤、すっかり狂気に振り切れてしまった主人公が、それでもなお最後の最後まで手を出さなかったのが彼・ゲイリーでした。
観て分かる通り小人症という障害を患っている彼だけが、職場で唯一、アーサーに対してごく普通の同僚として接していたかのように描写されていたからです。
アーサー自身も、同僚であるランドルを惨殺した際、君だけが僕に優しかったと言ってゲイリーのことは見逃しています。(ゲイリーは”目撃者”であり、彼に警察に駆け込まれたらまずいという状況であるにも関わらず。アーサーのこうした「自分なりの」判断基準がすでに狂気じみていますね)
しかし、パンフレットの人物紹介には『アーサーにとって唯一の親友』と書かれているのですが、実際に映画を観たところそこまで親密な仲だと見られる描写は特にありませんでしたね。
あくまでゲイリーは同僚の一人として接していただけで、(アーサーのことを少々気に掛けてはいたものの)特別仲良くしようとまでは考えていなかったと思われます。
また、アーサー自身もゲイリーの障害のことを同僚がからかっていた際、周りの空気に合わせて笑ってはいたものの部屋を出た途端に真顔になる(苦い表情にも見えました)など、二人の距離感は実際にはとても微妙なものだったのだろうなと思われます。
一般的に見ると「同じ障害者同士…」と思われるかもしれませんが、障害を抱えている人同士の人間関係はそれはそれで難しいものだと思います。
人間である以上、どうしても「あの人は自分と違って〜〜だな」と自分と相手を比較してしまう、より直截な表現をすれば上下関係が自然と生まれてしまうということはあるでしょう。
本当はお互いを尊重し、困ったときはお互い様だと助け合える関係になれたら良いのでしょうけど、現実はなかなか難しいものだと思われます…。
それでも、アーサーにとってみたら普通に接してくれるというだけで「優しい人」なんですよね。
エレベーターで出会ったソフィーが、隣人としてごく普通に日常的な会話を振ってくれたというだけで、彼女に対して好意を抱いたように。
この対人距離のつかめなさが、アーサーにとっての「対人関係の難しさ」の要因の一つになっているな…と改めて思わされました。
自分と他人との境界が分からない。
境界が分からないので、どの程度の距離を保ったらいいのかも分からず、結果として対人関係をこじれさせてしまう。
こういう傾向のある人はアーサーに限らず周りを見渡せば結構見かけると思うんですけどね。程度の差こそあれど。
コメディアン・マレーについて
マレーは、アーサーの憧れのコメディアンであったと同時に、(あわよくば)自分の父親的存在になってほしい人でもあったんですね。
そのマレーに、自分のステージ上のネタを馬鹿にされ、最後の最後に舞台上で打ち明けた告白とアーサー渾身の訴えに関しても完全に拒絶(=”正論”で返された)され、アーサーとしては裏切られたという気持ちで銃の引き金を引いた、といったところでしょう。
マレー本人からすれば勝手に都合の良い幻想を抱かれ、勝手に失望されて殺されたというわけで堪まったものではないですが。汗
ところで、日ごろバラエティー番組での芸人さん同士のやり取りを見ていると「イジリ」と「イジメ」というのは突っ込む側と突っ込まれる側に信頼関係があるかないかだけの違い、要するに紙一重なんだなと思います。
アーサーの場合は、本人が一切手の出しようのない状況で、テレビ番組という公共の電波を使って一方的に「見世物にされた」というのがあまりよろしくなかったですね。
マレーの方から、君のステージの映像を見てぜひ共演したいとかなんとかアーサーに直接連絡を取って、番組上で突っ込まれるのであればまだ良かったかも…なんて、少し考えてしまいました。汗
基本的にアーサーって、素の行動が色々と突っ込みどころの多い人ですからね。(天然ボケとでもいうのか)
銃を試し撃ちしておいて、あまりの衝撃に尻持ちついちゃった事件といい、
病院での銃うっかり落とし事件といい、
出口専用の自動ドアに正面衝突事件といい…
また、うっかりミス以外に関しても、
・ガラスにヒビが入るぐらい頭突きしてるのにコブ一つない
・ろくに練習してなさそうなのに片手でしかも正確に相手を狙って銃を撃てる
・車にはねられても何事もなかったかのように走り続ける
などと、どう考えてもごく普通の一般市民とは思えないほどのスペックの高さも持ち合わせていますね。
(初見時は流石にストーリーの重さに圧倒されていたので、ここまでアーサーの行動に突っ込みを入れながら鑑賞できたというのは、二回目の鑑賞で心に余裕ができたということの表れなのでしょうね…笑)
あくまで個人的な意見ですが、彼は自分一人でステージに立つよりも、誰かに突っ込んでもらってこそ輝ける人、なのだと思います。
ただこれまた悲しいことに、自分でネタを作って自分で人を笑わせたい、というアーサーの本来の願望には合致しないんですけどね…汗
つくづく人生色々とうまくいかないものだ。
もしかしたら、マレーにからかわれたと思ったことすらアーサーの被害妄想だった…ということも考えられないでしょうか。
だとしたら、マレー殺害はとばっちりもいいところだとしか言えないですね。汗
マレーがアーサーをテレビでネタにした、というのは現実の出来事だと思いますが。そうでないと番組への出演依頼なんて来るはずもありませんし。
(※追記)
アーサーのこれらの「うっかり」の多さに関してですが、単なるドジな人というよりももっと踏み込んで言うと空間認知能力に難がある人なのかな、とふと思いました。
物を落とす、前方不注意で物にぶつかる、よくよく見てみると走るときの姿勢も手と足の連動がうまくいっていないバタバタとした走り方ですよね。
食べ物を食べているときにポロポロとこぼしてしまう、前を歩いている人のかかとを間違えて踏んでしまう、といったようなこともよくあるのではないでしょうか。
単なる「ドジな人」「うっかり屋さん」で済んだら良い方ですが、大人になってもこういったことが続くと対人トラブルであったり本人が何かしら怪我をしたりする原因にもなったりするのでなかなか大変だろうなぁ…と思いますね。汗
まとめ
自分でも書いていて驚きの長さになってしまいました…汗
それだけ、初見時以上に物語の細部までじっくり見ることができたり、また主人公の感情の動きなどにもより一層着目することができたのだろうな、と思います。
私にとってアーサーは未だに理解しづらい人物ではありますが、彼には彼なりの理屈があって、その通りに行動しているんですね。
ただ、その「彼なりの理屈」と周囲のそれとの間には深い溝があり、その溝が少しずつ少しずつ広がっていったものが『ジョーカー』という概念なのかな、と。
本当に、何度も観れば観るほど改めて気づかされることが多い作品だと思います。
それだけに、一度この作品にハマってしまった人は何度もリピートして鑑賞してしまうことになる…ということなのでしょうね…苦笑
ところで、これは余談になりますが、私はバットマンに詳しくないので、初見時はアーサーが出会ったあの少年こそが後のバットマンであると気づかなかったんですよね。
むしろこの少年が後に成長して第二の『ジョーカー』となって、両親の命を奪い去った理不尽な社会に牙を剥く、そうして歴史は繰り返されていく…という展開なのかとばかり思っていたんです。
的外れにも程がある、と自分で自分に突っ込みを入れてしまったものです…汗
(でも、『ダークナイト』を見た限りバットマンとて決して100%「正義の味方」とは言えない部分もありましたし、私の予想も案外当たらずとも遠からず…と言えるのではないかな?笑)
三回目鑑賞はさすがにない…と思いますが(笑)、DVDないしBlue-Rayが発売されたら是非購入して、再びこの映画の世界観にどっぷり浸りたいと思います。
本当に見応えのある映画でした。
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