名越康文先生著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』 雑感

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『鬼滅の刃』という作品が一大ブーム、社会現象を引き起こしてからだいぶ月日が経ちました。
私自身もこの作品に魅了された者の一人であり、特に劇場版の『無限列車編』は自分史上初めて何度も繰り返し足を運んだ映画でした。
(映画ブログと謳っている以上、感想を書こうかなとも思ったのですが、他にも素晴らしいレビューを書かれているブロガーさんが多くいらっしゃるでしょうし今更こんな弱小ブログで書いてもなぁ…と断念いたしました。苦笑 でもいつかは記事にまとめてみたいです。)

今回は、そんな『鬼滅の刃』に関していくつか出版されている考察本(あまりサブカル系とは縁のなさそうなイメージのある大学の研究者の方なども考察本を出されている辺り、この作品の影響力が分かりますね)の中から、
私が尊敬している精神科医の名越 康文(なごし やすふみ)先生の著書である、
『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』
についての感想記事を書かせていただきたいと思います。

名越先生について

名越先生は精神科医を本職とされている方なのですが、アニメや映画、ゲームなどのサブカルの分野でも登場人物の行動原理を心理学的観点から考察されているので有名な方です。
私が先生のことを初めて知ったのは、『スター・ウォーズ』のアナキンについての心理考察を動画でたまたま拝見したことがきっかけでした。
私も(素人ではありますが)大学時代に心理学をかじったことのある者として、先生なりのアナキンの心理分析にはなるほど、と唸らせるものが多く、この先生のことをもっと知りたいな、動画や本を読んでみたいな、と思ったものです。
それから偶然先生のYouTubeの動画を見る機会があり、そしてその流れで『鬼滅』の本のことを知ったという次第になります。

『傷ついたまま生きるためのヒント』とは

(中略)現実において、心の傷は「治療すべき対象」というよりはむしろ、この社会が受け入れてゆくべき「人が生きるプロセスそのもの」ではないか、と僕は思うのです。
「トラウマ」を抱えたまま生きること。心の傷を乗り越え、昇華させていくプロセスにこそ、人生の面白さや、人間の魅力が立ち現れるのではないか。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

私たちは多かれ少なかれ何らかの「傷ついた経験」を抱えて生きています。
その「心の傷」からどうにか逃れたいと思う人もいれば、
なんとかして向き合いたい、と思う人もいるでしょう。
逃げるにしても、傷と向き合うにしても、いずれにしても過去の自分をどうにかしたい、という気持ちからくる行為だと思います。
しかし、非情なことに過去は変えることができません。
変えることのできない過去だからこそ、皆、心の傷を抱えたまま、苦しみながら生きているのだと思います。
では、「傷ついたまま生きる」とはどういうことでしょうか。
これはそのままの通りで、「心の傷を治療しなければいけないものとみなすのではなく、人生におけるプロセスとして、傷を抱えたまま生きていくこと」ということになるーそう名越先生は著書のはしがきにて仰られています。

この先生の記述を拝読して私が思い出したのが、梨木香歩さんの『裏庭』という作品でした。

梨木香歩著 『裏庭』


この作品もまた、幼少期に受けた心の傷とどう向き合うのかということをテーマとした(ジャンルとしてはファンタジーでありながら)カウンセリング的な小説なのですが、
この作品の中で語られたいくつもの印象的な登場人物の台詞の中で、とりわけ印象的だったのが

「傷を、大事に育んでいくことじゃ。そこからしか自分というものは生まれはせんぞ」

梨木果歩『裏庭』より

といった旨の台詞だったのです。
また、本作の中では、「癒し」という行為に関して、「自分の傷と真正面から向き合うよりは、似たような他人の傷を品評する方が遙かに楽だもんな」といった皮肉めいた台詞もあります。
ちょっと観点は違うかもしれませんが、『裏庭』で語られた「傷を育んでいく」ということもまた、名越先生の仰るところの「傷ついたまま生きる」というにつながっていくのではないでしょうか。

前置きが長くなってしまっても仕方がないので、ここからは先生の考察に即して、「鬼側」「鬼殺隊側」それぞれの対比構造から「心の傷」に対する対処療法について語っていきたいと思います。
あらかじめお断りしておきますが、あくまで名越先生の本を拝読した上で私なりに感じたこと、であり私の主観も大いに含まれておりますのでご了承ください。

「鬼」とは現代人の写し鏡である

名越先生が何度も繰り返し書かれていたのが、鬼とは我々現代人の姿だ、ということでした。
主人公たち鬼殺隊と敵対する存在であり、人外の生命力と能力を得た「鬼」。
そんな「鬼」たちについて、先生の考察をもとに私の感じたことを述べていきたいと思います。

「生殺与奪の権を他人に握らされている」存在である「鬼」

「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」という冨岡の言葉は、実は炭治郎だけに向けられたものではありません。読者、ひいてはすべての人間へと向けられた「メッセージ」だと考えられます。
では、「生殺与奪の権」を他人に握らせてしまうと、何が起きるのか?
実は、「鬼滅の刃」の世界には、「生殺与奪の権を他人に握らせてしまった人間」がどうなってしまうか、ということがあからさまに描かれています。それは「鬼」です。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

「生殺与奪の権を他人に握らせるな」ー主人公・炭治郎が物語の冒頭で重要キャラクターの一人、義勇さんから(かなり強い語調で)かけられる言葉です。

『鬼滅の刃』コミックス1巻より


ここでいう「生殺与奪の権を他人に握らせるな」とは、もっと柔らかい言葉に置き換えると自分の人生は自分のもの。自分の人生を人にゆだねてはならないよという言葉になると思います。
では、「生殺与奪の権を他人に握らされている」存在とはどのようなものかー名越先生は、その存在こそが「鬼」なのである、と述べておられます。
確かに、鬼はほぼ不死の身体を持ち、肉体的にはとても強い存在ではありますが、鬼舞辻無惨に常に思考を読まれ絶対服従させられている身であると「生殺与奪の権を他人に握らされている」存在といって良いですよね。
そうした観点からこの義勇さんの台詞を改めて見ると、「鬼になるな、人として生きろ」というメッセージが見えてくるのではないでしょうか。
そしてこの「生殺与奪の権を他人に握らされるな」という問いかけは、私たち現代人に対しても突き刺さってくる言葉なのではないでしょうか。
私が真っ先に思い浮かんだのは、ネット社会の現代でした。
私たちは今、多くの人たちがSNSのアカウントを持ち、各々の「意見」を発信しています。
しかし、それは果たして本当に「自分の意志で」発信していることなのでしょうか。
いつからか、私たちは単なるツールである「ネット」に生活を侵略され、自分自身のアイデンティティーをもネットに支配されてきてしまっているのではないでしょうか。
先生の記述を読んで、そんな危機感を感じさせられました。

対人関係は支配ー被支配の構造であってはいけない

こちらが命令した通りに動く他人、あるいはいつもこちらの心の動きを思いはかり、こちらを喜ばせるように動くだけの他人は、所詮、主体性を持たない「人形」に過ぎません。
気がつけば、自分のことを気にかけ、優しく言葉をかけてくれる他人、つまり自分に直に触れようとしてくれる、本当の意味での「他人」はいなくなり、心の奥底にしまいこんだ「さびしさ」はまったく癒されないまま、心の奥底に封印されていくのです。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

鬼たちは(ほぼ)不死となった肉体を盾に、人間たちを「弱い存在」と見下し、蹂躙します。
私が思うに、これは「無惨から支配を受けている」が故の行動なのではないでしょうか。
他人から精神的・肉体的支配を受けている者が、「自分よりも弱い存在」へと目を向け、今度は自分が「支配する側」になろうとするーありがちなことだと思います。
しかし、「支配する・される」の対人関係のままでは、本当の意味での人間関係を築くことはできません。
人は一人ひとりが違う考えを持った生き物です。
そんな一人ひとりの「違う人たち」と意見を交わし合い、互いにコミュニケーションを取っていくということが真の「人間関係」なのであるー先生の記述からはそのような考えが伺えました。
そして、このように「自分の抱えている心の傷を他者にぶつける、他者を支配下に置こうとする」ところが鬼の「未熟性」、ひいては「私たち現代人が持つ未熟性」なのであろう、と先生は考察されています。

鬼の「弱さ」について

私たちは時間の経過とともに衰え、滅んでいく肉体を持っている。損なわれてしまったら、二度と元には戻らない、一回性の生命を生きている。だからこそ、生命を美しいと感じることができるし、自分以外のものを大切にしたいと思うのです。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

鬼の弱点は、言うまでもないことですが太陽の光です。
このことを特に顕著に感じられたのが、映画『無限列車編』で敵の鬼である猗窩座が煉獄さんとの戦闘から退却する場面でしたね。
個人的な感想になりますが、この場面を見て、「お天道様の下を歩けないって、鬼って哀れな生き物だなぁ…」と思った覚えがあります。
昔から日本では「お天道様が見ている(から悪いことはできない)」という言い回しがありますよね。
古来から日本人の中では「太陽」とは「人間の心の闇の部分を暴くもの」という概念があったのかもしれないな…と思いますね。
もう一つ、名越先生が挙げられている鬼の「弱い」面については、(ほぼ)不死の肉体を得てしまったがゆえに、自分自身の能力の高みというものを目指す心持ちをなくしてしまった、という部分があります。

『鬼滅の刃』コミックス8巻より

作中で煉獄さんが「老いるからこそ死ぬからこそ堪らなく愛しく尊いのだ」と言っているように、私たち人間は限りある生命だからこそ、一回かぎりの生命だからこそ、自分の命を、人の命を大事にしよう、と心がけるのです。
それは、昨日の自分よりも更に高みを目指すということにもつながり、そういった限りある生命だからこその強さというものが鬼にはない、人間の強さなのでしょう。

もう一つ私が思ったのは、「鬼は子孫を残せない」ということも、生物として「弱い」のではないか、ということです。
私たち人間、だけでなく今を生きるあらゆる生き物の祖先は長い長い年月を経て、何度も何度も大量絶滅の時代を乗り越えて、時に姿を変え、場所を変え、そうした「遺伝子の記憶」を子孫に繋げて今に至るまで生きてきました。
そうした「生命を次世代に受け継ぐ」ということができないのは生物として致命的な(あえてこういう言い方をさせていただきますが)「欠陥」であるし、そう考えると鬼というのは、鬼舞辻無惨から与えられた「まがいものの生命体」に過ぎないんだな、と思えてしまいます…。

「幼児性」を隠さない無惨という悪役

冷徹な表情で「私は何も間違えない」と言い放つ鬼舞辻の心の底には、「自分以外の存在」が自由な意思を持つことを認めた瞬間に、自分の立場が危うくなるのではないかという、本人にさえひた隠されているような恐れがあります。つまり、あれほど強いはずの鬼舞辻の内側には、私たちには想像がつかないほどの強い不安や恐怖心があるのです。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

そんな鬼たちを支配する作中のラスボスである無惨ですが、名越先生は「幼児的」というキーワードを何度か用いて無惨について考察されています。

読者からも度々「無惨って小者だよな~」と言われているように彼は本当に短絡的で自己中心的、自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起こす、幼児的といえば幼児的なキャラだよなぁ、と思いますね。
そして、作中で珠世さんも言っていたように、何かあって配下の鬼たちが自分に牙を剝くことがあったらどうしようという強い恐怖心や不安を感じている。
恐怖で配下の鬼たちを支配下に置いている無惨自身もまた「恐怖」に支配されている、というのがなんとも皮肉ですね。
また、先生も仰っていたことなのですが、無惨の行動の源になっているのは「鬼の始祖としての圧倒的なパワー」ではなく「自分の弱点を知っていて、それを克服しようとする力」なのだと思います。
誰よりも「太陽の下を生きることができない」という自分に強いコンプレックスを抱えていた無惨。
自分自身に対する劣等感や自己中心的な考え、恐怖によって部下を押さえつけようとする傲慢さなど、もしかしたら無惨は作中でもっとも人間らしい、そして私たち現代人の側面を映し出しているキャラクターなのかもしれませんね。

閑話休題ー「悪役」としてのダース・ベイダー/アナキン・スカイウォーカー

先にも述べた通り、名越先生は「スター・ウォーズ」シリーズにしても造詣が深く、特にアナキンの心理考察については私も大変興味深く拝見させていただいております。
先生は未熟性や幼児性を孕んだ悪としてダース・ベイダー/アナキンを例に挙げられていますが、彼もまた鬼滅の刃の鬼たちと同様、現代を生きる私たちが抱える未熟性というものを体現しているキャラクターなんですよね。
母親を守ることができなかった自分自身への憤りを他者にぶつける(自己正当化)、妻子を守りたいという思いがいつしか家族で銀河を征服してやろうという野望に置き換わる(妄想の誇大化)…
アナキンというキャラクターが人気が高い反面、いわゆるアンチも多いのは、彼の中にどこか自分が見えてしまって、同族嫌悪的な感情を抱いてしまう人が多いからなのではないか、と思いますね。
先生は「未熟な人間が、その未熟性を自覚し、成熟への道を歩んでいくにはどうしたらいいのか?」という問いかけをなされていますが、スターウォーズのアナキンに照らし合わせて私なりに考えてみた一つの答は他者は他者で自分は自分である、という風に他者と自分との間に適切な境界線を引くことだと思います。
相手と自分との間に線引きをする、ということは、相手のことを守ると同時に自分のことも守る、適切な人間関係を築いていく上で非常に重要なことなのだと私は考えているので。
もちろん、これはあくまで私はこう思った、という主観的なことですので、成熟ってなんだろう、どうすれば良いのだろうか、とよろしければこのブログを読んでくださっている皆さんも一緒に考えていただければと思います。

「躁的防衛」と「解離」

鬼は現代人である私たちの写し鏡であるーという考察から「心の傷」への対処法について話を戻します。
鬼と鬼殺隊、各々が抱える「傷」に対してどう対処しているかの対比構造を読み解くことによって、名越先生なりに解釈された「心の傷へのアプローチ」について掘り下げていきたいと思います。

鬼の「躁的防衛」

鬼たちは、心の奥底に抱えたさびしさを、他人を暴力や恐怖によって支配することによって埋めようとしています。これをあえて、精神医学の用語をあてはめて解釈するなら、「躁的防衛」という言葉があてはまるように思います。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

鬼滅の刃という作品の人気の理由の一つに、敵である鬼たちにもそれぞれ悲しい背景があり、「泣ける」エピソードがある、というのが挙げられます。
貧困や病気、家族との死別など背景はさまざまですが、鬼にも鬼なりの「鬼になってしまった」理由があるということを丁寧に掘り下げていること、しかし一方でそんな鬼たちも地獄行きを免れることはできない=人を蹂躙することはどんな悲しい理由があっても許されないという、作者である吾峠呼世晴先生の信条をしっかり貫かれていることが作品全体に厚みを生み出しているのだろうな、と思います。
そんな悲しい過去、心の傷に対してどう対処しているのか、というのが名越先生の仰るところの「躁的防衛」、他人を暴力や恐怖で支配することによって心の傷を埋めようとする行為なのでしょう。
分かりやすい例が、遊郭を支配していた上弦の鬼、堕姫と妓夫太郎の兄妹ですね。
ともに悲惨な過去を抱えて人間時代を生きていた二人。
そんな二人が、かつては大人たちから虐げられ搾取されていた二人が、今では人を食らう鬼となって人間たちを蹂躙している。

『鬼滅の刃』コミックス10巻より

妓夫太郎は「人にされて嫌だったこと苦しかったことを人にやって返して取り立てる」という自身の考えを述べていますが、これこそが「躁的防衛」の考えなのだと思います。

また、躁的というのは、自分の中に力がみなぎってきているように感じ、自分は万能なのだという誇大な思い込みの思考(そう思い込むことによって心の傷を塞ごうとしている)のことを表しているのですが、そういった観点から見るとスターウォーズのアナキンのダークサイドに落ちてからの行動や思考もまた、名越先生の仰るところの「躁的防衛」だったのかもしれないな…と思いますね。
個人的にはアナキンのような人はメンタルが弱い、というよりも「考え方に独特の癖というか歪みがあり、その歪みのせいで生きづらさを抱えている」ように思えます。

鬼殺隊の「解離」

鬼殺隊の隊士たちの自己防衛は、鬼たちのように他人を暴力的に支配する躁的防衛ではなく、自分の心と切り離された感情表現や行動をとるという、「解離」として表現されています。
「解離」というのは、心理学的には、自分が抱えこんだ感情と、いまリアルタイムに表出される感情との間を断絶させるということを言います。そうすることによって、耐え難い心の傷を乗り越えようとするわけですね。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

鬼たちと同様、主人公ら鬼殺隊士たちもまた心の傷を抱えています。
胡蝶しのぶさんのように鬼によって家族を殺された者もいれば、伊黒小芭内さんのように最初から崩壊している家庭で育った者もいたり…。
そうした彼らが心の傷をどう乗り越えようとしているのかというと、鬼を倒す、ひいては鬼の始祖である鬼舞辻無惨を倒すという「正義」のために殉じることによって、心に負った傷ー悲しみを切り離している。これこそが「解離」なのだと名越先生は述べておられます。
具体的にキャラクター名を挙げると、主人公である炭治郎は、家族を鬼に殺されたという深い心の傷を負っています。
そんな彼が取った行動は、鬼になってしまった妹の禰󠄀豆子を人間に戻すため、鬼との戦いに身を投じるというものでした。
酷な言い方になってしまいますが、禰󠄀豆子が人間に戻ったとしても、他の家族の命を奪われたという事実は消えないし、そのことによって炭治郎が負った心の傷が癒えることはありません。
それでも炭治郎は、「禰󠄀豆子を人間に戻す」という使命を自分に課し、鬼と戦い続けることによって、家族を奪われた悲しみ、心の傷から自分を「解離」させているのでしょう。

「躁的防衛」と「解離」との対比

現実世界で暮らす私たちもまた、親しい人との離別や社会の矛盾や理不尽な出来事の前で、時には躁的防衛をしたり解離的防衛をしたりして生きています。鬼と鬼殺隊は、人間がトラウマにどう向き合うかという問いに対して、いわば二つの対極的なアプローチを見せてくれているように思います。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

ここで気を付けたいのは、名越先生は決して鬼たちのとっている躁的防衛が「悪い」ことだと断じてはいない、ということです。
上記の引用にもある通り、私たちは時と場合に応じて、躁的防衛と解離的防衛を使い分け、心の傷に対処しながら生きている。
そう考えると、躁的防衛と解離というのは、実は鬼VS人間という「対立構造」ではなく、一人の人間の心の中で起こっていることである、ということになるのではないでしょうか。
先の項目で先生の考察を挙げながら述べたとおり、鬼とは私たち現代人の心の側面でもあります。
鬼滅の刃という作品がここまで多くの人たちの心の琴線に触れる作品である理由には、そんな風に私たちの心の奥底に訴えかけてくるものがあるからなのではないでしょうか。

例外ー「心に傷を負ったことがない」童磨という存在

童磨の抱えているさびしさというのは、「さびしさを感じ取れないことによるさびしさ」なのです。彼は、どれほどさびしいことがあっても、さびしいと感じることができない。彼を見ていると、本当のさびしさというのは「さびしさ」というかたちを取らないもののことを言うんだな、と思うのです。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

ここまで、鬼と鬼殺隊が抱える「心の傷」と、それに対する対処法について名越先生の考察を取り上げてきました。
そんな中で、異彩を放っているのが童磨というキャラクターでしょう。

『鬼滅の刃』 コミックス16巻より

彼はいつもにこにこと朗らかに笑ってはいるものの、他人の感情を感じ取ることができず、他人に同調することが生まれつきできないキャラクターとして描かれています。
現代から見たところのサイコパスに該当する、と名越先生も仰っています。)
他人に同調することがないから感情を揺れ動かされることもないし、傷ついたりすることもない。
傷つくことがないので、躁的防衛や解離といった対処法を取る必要もない。
童磨というキャラクターはまさに虚無の中を生きているキャラクターであり、だからこそ読者に「さびしさ」を感じさせられるキャラクターであるーそう先生は述べておられます。
先生の考察を拝読して私なりに思ったことですが、感情を乱されない童磨が二度だけ、感情を動かされたと思われる描写があります。
それが、カナヲに「貴方何も感じないんでしょ?」と指摘された場面。
そして、死した後の世界でしのぶさんに恋をした場面です。
童磨というキャラクターは決して感情自体がないわけではないのでしょう。
ただただ、他者の感情に同調することができず、喜怒哀楽の感情の幅が非常に狭い
それを本人も自覚している。
ここで思い出したいのは、カナヲというキャラクターは、炭治郎と出会うまで自分自身での意思決定がない(炭治郎曰く、「心の音が小さい」)キャラクターだったということです。
想像を絶するほどの辛い環境で育ってきたがゆえに、いつしか辛い、苦しいといった感情そのものを感じないようにさえなってしまったカナヲ。(これもまた「解離」の防衛反応ですね)
境遇は違えど、自分と似たものを持つカナヲに童磨としては同族嫌悪的な、ある種の「不快」という名の感情を覚えたのではないかな、と私は想像しています。(快・不快の感情はあらゆる感情の中で最も原初的なものですからね)
そして、しのぶさんへの恋愛感情。
これまで、自分を「教祖」としてしか見ず、崇め奉る信者たちとばかり接してきた童磨にとっては、(たとえ憎悪という感情とはいえ)自分に対して真っ向から向き合い、強い感情をぶつけてきたしのぶさんは「特異」な存在だったのでしょう。
心の奥底ではずっと感情が欲しかった童磨がやっと強い感情に動かされたのが死した後のことだというのはなんとも皮肉なことだな、と思いますね。

人はトラウマを抱えながら生きていく

現実問題として、私たちは誰もが皆、どこかで心に傷を負っています。その傷は、必ずしも癒されることはなく、人は何らかの防衛機能を使って、その傷をいわば「踏み越えて」生きている。それが現実だと僕は思います。

名越康文著 『鬼滅の刃が教えてくれた傷ついたまま生きるためのヒント』

私たちは「トラウマを克服して主人公が成長する」という「成長神話」的な物語を好みます。
確かにストーリーとしては明るく前向き、そして明快なものなので一般受けしやすいだろうな、と思います。
しかし、果たして人は本当にトラウマを「克服する」必要があるのでしょうか。
むしろ、トラウマを抱えながらも、トラウマから自分の身を守りながら生きていくことの方がリアルな人間としての在り様なのではないでしょうか。
鬼の躁的防衛にしても鬼殺隊の解離についても、一見すると解決すべき問題から目をそらし、逃避しているようにも見えるかもしれません。
しかし、そうした防衛行動を契機に、「妹を人間に戻す」という決心をした炭治郎のようにより大きなの目標を掲げて生きていくー「トラウマを抱えて生きていく」ことこそが人生なのではないか、と名越先生は仰られています。
冒頭でも述べましたが、確かに心の傷を「癒す」というのは、口で言うのは簡単ですが限りなく難しいことですからね。
過去は変えられないので、実際に起きたこと、傷ついたことをなかったことにはできません。
大事なのは無理に乗り越えようとするのではなく自分の中の考え方や目の向け方を変えてみることなのではないかーそう私は思います。
また、トラウマと成長、という部分について私が思い出したのが、スタジオジブリの宮崎駿監督が『千と千尋の神隠し』のインタビューの際に語っておられた、「これは千尋の成長物語ではない」といった旨のコメントでした。

最近の映画から成長神話というようなものを感じるんですけど、そのほとんどは成長すればなんでもいいと思っている印象を受けるんです。だけど現実の自分を見て、お前は成長したかと言われると、自分をコントロールすることが前より少しできるようになったくらいで(中略)成長と恋愛があれば良い映画だっていうくだらない考えを、ひっくり返したかったんですね。

「折り返し点 1997~2008」 宮崎駿監督コメントより

心の傷を「乗り越える」にしろ、「成長」するにしろ、そういった要素はあくまで「憧れ」でしかないのかもしれませんね。ある意味ではとても「美しい」人生の在り方に見えるのかもしれません。
けど、実際の人たちはトラウマを乗り越えるまではできず、時と場合に応じてトラウマから自分の心を防衛しながら、「泥臭く」生きている。
名越先生の考察にしても、宮崎監督のコメントにしても、人間って、人生ってそういうもんなんだよ、だからあまり気を張りすぎて生きていくこともないんだよということを語りかけておられるように感じられますね。

まとめ

鬼という生き物は私たち現代人の心の写し鏡のような存在であること、そして鬼と鬼殺隊が抱えている「心の傷」とそれに対する各々の防衛反応について、名越先生の考察に基づいて感想・考察記事を書かせていただきました。
その上で改めて『鬼滅の刃』という作品を見ると、鬼と人との戦いって、「心の傷を抱えた者同士のぶつかり合い」なんですよね。
そして、そういった葛藤は私たち一人ひとりの心の中にも起こりうることで、そういった心理的な方面から見ても『鬼滅の刃』は非常に奥深い作品なのだな、ということが分かりました。

その他、キャラクターについての名越先生なりの考察もたくさん書かれているのですが、さすがに全部はこのブログでは書ききれないので(汗)、各キャラクターの考察について興味のある方は是非とも本を手に取ってみてください。
一つだけ、少しだけキャラクターについての考察の中で印象に残ったキャラを挙げさせていただきますと、主人公である炭治郎について過剰適応を感じた、という箇所でした。
過剰適応とはすなわちなんでもそつなく対人関係をこなせるがあまりに、実は精神的疲労を抱え込んでしまいがちな人ということになるのですが、なんでも自分のことは二の次で他人を気遣うという炭治郎の性格がまさにこれに該当するのではないか、とのこと。
そして、物語終盤で炭治郎が(ネタバレ回避のために敢えてこう表現させていただきますと)とある危険な状態に陥ることになるのですが、これは自分のことはずっと二の次にしてきていた炭治郎が自分の中にある、ずっと抑圧してきた「自我」と向き合うための成熟の過程としてとても大きな出来事だったのではないか…と名越先生なりの解釈でまとめられていて、成る程なぁと考えさせられました。

『鬼滅の刃』という作品を精神科医の観点から見て考察された本作はとても読み応えがあり、また私のようなど素人(汗)にも十分わかるようにやさしい表現で書かれていて、大変読みやすい本でした。
『鬼滅の刃』のファンの方で考察などが好きな方には是非とも手に取って読んでいただきたいなと思います。
名越先生、この度はこの本を執筆していただき、ありがとうございました。

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